「死ぬ日まで」

ダニエル ヘンダーソン
(米国・カリフォルニア州・サクラメント市・アーケード・バプテスト教会牧師)

1. 私が祈りの場に私を委ねさせた第一要因は必要の意識です。祈りは神に頼ることです。祈らないのは神からの最後的独立宣言です。私は生来独立心の強い人間でした。神は祈りの訓練を用いて、私の弱点を力に変えられました。

2.第二の要因は確信です。私は使徒6:4で発見をしました。使徒たちには教会運営の危機がありましたが、運営のためにみことばと祈りの務めに妥協をしませんでした。私は7年間の神学校教育でみことばの奉仕には備えられましたが、個人的に祈りに影響した人はいないのに気がつきました。私は祈りの訓練が不充分なまま神学校を出ました。私の回りの多くの牧師もそうだと知りました。祈りの時間は一日平均、信徒五分、牧師七分です。「継続的に祈りに自分を委ねる」とは何か、の発見が私の確信となりました。

3.第三の要因が幻です。私は祈りなしにリバイバルは来ないことを悟りました。私たちは「神が説明できないことされる」ことを求めました。私たちは経済、技術、知識その他資源の豊かな国にいますが、能力は衰退の傾向にあります。私たちは絶望の状況にいます。文化を神の前に持って行かない限り変化はないのです。牧師指導、教会中心の、祈りの運動が、私の幻の土台となりました。私の情熱は諸教会がこのことをすることです。

90年代初頭に、湾岸地区の牧師のサミットに出席し、神を求めるのに長い時間をかける大切さを学びました。議題なしに主を待ち望む祈りの価値を知りました。それが礼拝の基礎だと理解できました。聖書と賛美で主の前に出るのは当時の私には過激な経験でしたが、今では基本姿勢となっています。

こちらの教会に移住後間もなく、北米指導者サミットに出席したのはよいタイミングでした。その次の聖日、私は最初の教会説教をする予定でした。その帰り道、いっしょに出席した2名の長老と話しました。私は長年祈祷会の指導をしてきましたが、サミットは祈りを外から考え直させました。なぜ私たちもこれをしないのか。

帰宅後一連の祈りの説教をすると同時に、信徒に、聖書的な動的祈祷会をする訓練を始めました。94年、教会で祈りのサミットを開始すると、100名が応募しました。私はこれを「出会いグループ」と名づけました。どうすればよいか知らないままの信仰の出発でした。私はその世話の仕方がわからないので、参加者として出席しました。

このサミットは私の生涯で最も深い聖霊経験となりました。

この10年間に30組の出会いグループができ、これが教会の祈りの訓練の心臓部です。13の祈祷会があり最大は200―400人です。世界祈祷センターがあり、120人がその牧師チームにいます。これらが教会員を動かしている祈りの働きの全部です。モデルは教会職員の毎朝4時間の祈りです。この祈りがその源泉となって非常に固い伝統的教会に大きな変容を引き起こしたのです。

礼拝を基礎とした祈祷会の考えは聖書からきました。私が「課題祈祷会」と呼ぶ祈祷会をする教会で私は育ちました。まず集って2,3の賛美を歌い、「おばの病気、彼のけが」など祈祷課題を各自が出します。その説明に多くの時間を使って疲れた残りの時間に「おばを、彼を祝福してください」と大急ぎで祈って終わります。しかし神に叫ぶ祈りと、神と交る祈りとは違います。叫びは生活の危機から来ますが、交わりは神への確信から来ます。主との交わりは主の手でなく、主の顔を求めるのです。主への叫びは交りにならないが、主との交りは叫びに変るのです。

教会の祈りの訓練の結果、神のなされたことは、めざましいものでした。考えられないような奇跡が続出しました。以前の教会はすべてができ上がっており成長はわずかでした。私は前任者が40年奉仕した教会に来ましたが、前任者と私は、考えも行動も全く違っていました。どうしても私は彼のようにはなれません。

最初にしたことは祈りでした。心の一新で危機を突破しました。私が来てから信徒は2倍になりました。孫教会が4箇所で成長しています。神の業は語り尽くされません。今までの決まり文句は「したことがない」でしたが、今は聖日に「何かすこし新しいことをする」に変りました。祈りが考えを柔軟にし、期待へと変化しました。しかしここに注意がいります。祈りは成長の道具でない、神は利用するものでもないのです。私の祈りの励ましはこうです。

1.神の栄光の、超自然的経験を求める情熱の維持。それ以下でない。私たちは神に頼ることなしにハイテクを利用できます。しかしあなたはこの熱情を強く持ち、他のもので満足してはならない。

2.純粋な動機の維持。私がこのことを学ぶのは困難でした。私は最初、祈りは教会成長の手段と考えました。次はリバイバルを起こす方法とも考えました。しかしリバイバルがすんでもなお祈るのかと問いました。祈りを継続する唯一の動機は、神は祈り求めるのにふさわしい方だということです。

3.最後の奨励は忍耐。神が唯一の目的である時に大会衆を期待しないことです。牧師は祈りの計画を立てても、失望してやめてしまいます。群集は一夜で起らないのです 私は月曜日朝6時の教会祈祷会は苦痛でした。「いつまでこれを続けるのですか」と主に問いました。「朝起きて歯磨き、洗面をいつまで続けるのか。」答えは明白です。「死ぬまです。」それ以後、このことは問題ではなくなりました。祈りはいつも、私の人生の一部です。

(翻訳:門田道則)

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